政府が統計をとりはじめた明治二〇年代の平均寿命は、男子は四二・八歳、女子は四四・三歳である。乳幼児死亡率が高かったし(冠婚葬祭的にいうと、だから成長にまつわるイベントには一歳児以下の祝い事がいやに多いし、元服にも大きな意味があったのである)、病気や事故はもちろん、地震、台風、火事、飢饉まで、死ぬ原因にはこと欠かなかった。一方、明治三〇年代ごろからは、都市化の進行にともない都市人口が増加する。当然、死者も増加して、土葬にする場所が確保できなくなってきた。明治政府の埋葬政策はめちゃくちゃで、一八七三(明治六)年に火葬禁止令を出したかと思うと、わずか二年後には火葬禁止を解除するなど、かなり場当たり的である。が、火葬の普及を後押ししたのはハードウェアの発達だった。焚き口を横に向けて、空気を送り込むことのできる近代的な火葬炉(当時の言葉では火葬窯)がお目見えしたのは一九一五(大正四)年のこと(横田睦『お墓博士のお墓と葬儀のお金の話』)。重油や石炭を燃料に用いるようになったのも大正初期で、それまでは一晩かかっていた火葬が、わずか二、三時間ですむようになったという。
沖縄の年祝いの基底には、厄払いの思想がはっきりしていた。十二年目ごとにまわってくる干支にあたる年ごとにお祝いをするのである。最初の年祝いは十三歳のときであり、二十五、三十七、四十九、六十一、七十三、八十五、九十七歳となっている。この中で、十三歳ははじめての年祝いである。女子にとっては、実家で行う最初で、そして最後のお祝いとなると考えて(次は二十五歳だから、その頃はもうお嫁に行っているであろうから)盛大に行う習慣がある。もちろんこれは一人前の成女になったことと関係する年代である。二十五、三十七、四十九はいずれも成年・壮年期の元気な年だから、お祝いをするほどのこともなかろうということで、家族だけでするか、または略してしまうのが普通だった。したがって沖縄では、十三歳のあと中断し、六十一歳から年祝いを再開したことになるが、戦後になると寿命がのびて、六十一歳ではまだまだ若すぎるということになり、七十三歳から始め、料亭などで盛大に催すようになった。
子どもが主役のホームパーティーは、招く対象も子どもに選ばせるなど、子どもの希望をできるだけ生かして準備をします。誕生会やクリスマス会に招いてくれた子はこちらも必ず、お招きするようにします。あくまでも子ども同士のおつき合いであることを忘れずに、豪華になりすぎないように気をつけましょう。ご馳走も、カレーライスやハンバーグ、オムライスなど、ふだんのママの得意料理をちょっとおしゃれにデコレーションするぐらいで十分です。プレゼントをするときは、お母さん同士で、「五百円以内にしましょう」などと決めておき、品物は子どもに選ばせるようにします。招かれたときは、子どもが帰ったら、親は先方にお礼の電話を入れることを忘れずに。
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